法宝物

真宗史上欠くことの出来ない法宝物の数々

浄土真宗史上においても貴重な史料として認められる寺宝を所蔵し、その多くが文化財指定となっています。

親鸞聖人自筆<六字名号>一幅

親鸞聖人自筆<六字名号>一幅

新潟県文化財 縦25.0cm 横10.0cm 鎌倉時代(1255)
紙本墨書。親鸞聖人自筆の六字名号。建長七(1255)年、聖人八十二歳の時の筆跡といわれています。「書写之」とあるのは典籍の奥書を示し、聖人自筆の『浄土文類聚抄』の奥書と伝えられています。聖人は、名号を唱える功徳によって、衆生が浄土に往生できる、という教えを広めました。当時、仏教の諸宗は仏像などの形像を本尊としているのに対して、聖人は独自の思想にもとづいた「名号本尊」を用いました。本名号は、聖人の頂骨とともに浄興寺の由緒を物語る遺品としてきわめて貴重なものです。

二枚起請文 二幅

二枚起請文 二幅

新潟県文化財 室町時代(15世紀)
紙本墨書。浄土宗を開いた法然上人(1133~1212)の法語(在家の信者になされた平易な説法を記したもの)です。いずれも浄興寺八世周観上人(1399~1465)が、書写したものです。右は、一枚起請文と呼ばれる著名なものです。建暦2(1212)年1月23日、臨終の間際にあった法然上人が、浄土往生の奥義と、信者としての心得を簡潔に一枚の紙に記して弟子の勢観坊源智に与えたもので、原本は、京都の金戒光明寺に所蔵されています。上人の浄土念仏の要旨が凝縮されたものとして古くから珍重されてきました。左は、一枚起請文と同じような趣旨の内容ですが、本願をつむことの真意と、念仏行者としての心得を、さらに厳しくしかも長文でつづっています。各幅とも、画幅左端に裏書を並べて軸装してあります。

真宗古写聖教類 三十二冊

真宗古写聖教類 三十二冊

室町時代(15世紀)
浄興寺には、覚如上人・存如上人・巧如上人ほか本願寺歴代門主などが書写した聖教(仏陀の教えを説き記したもの)類が多く残されています。そのうち、『本願寺聖人親鸞伝絵』『顕浄土真実教行証文類』『末燈鈔』『愚禿鈔』『顕名鈔』『教化鈔』『執時鈔』『改邪鈔』『口伝鈔』『持名鈔』『決智鈔』『法華問答集』『浄土真要鈔』『諸神本懐集』『浄土見聞集』の15部32冊が新潟県文化財指定を受けています。これらの聖教類は楷書で書かれ、漢字にカナが付されているのが特徴です。これらは、室町時代初期に書写されたものがほとんどで、現存する真宗聖教の中でも古写本に位置づけられています。当時、京都本願寺に留学した浄興寺六世善秀上人・七世性順上人・八世周観上人らが、修学に際して、本願寺の門主や先師から与えられた貴重な遺品です。

本願寺歴代門主書状 十七巻四幅(三十通)

本願寺歴代門主書状 十七巻四幅(三十通)

浄興寺は、本願寺よりも古い由緒をもっているだけに、本願寺との古くからの関わりを伝える資料は少なくありません。歴代門主からの書状三十通もそのひとつです。 その内訳は、存如上人四通・蓮如上人六通・実如上人一通・証如上人一通・顕如上人二通・教如上人六通・宣如上人十通となっています。なかでも存如上人書状は、伝来数が少なく、きわめて貴重といわれています。存如書状は、大谷本願寺の御影堂・阿弥陀堂の新築や住坊の改築をはじめ、本願寺の歴史が明らかにされていない部分を補う内容となっています。また、蓮如書状は本願寺勃興期の教団研究の手がかりとなるものですし、巧観上人・了周上人ら浄興寺歴代が京都本願寺の蓮如上人のもとに留学した事情を伝えます。そのほか、顕如上人書状は、本願寺が東西分派にいたる真宗史上の重要な内容が読み取れる資料です。

専修念仏張文日記 一巻

専修念仏張文日記 一巻

新潟県文化財 鎌倉時代(14世紀)
紙本墨書。一般に二十一箇条禁制と呼ばれているものです。この禁制は、親鸞聖人の遺訓にもとづいて弟子の善性上人(浄興寺二世)が、地方教団統制のため必要事項を加えて集記したものを、浄興寺四世の専海上人(1259~1318)が漢文に改めて書写し、門徒中に張文したものと伝えられています。また、善性上人が集記した原本は、仮名文字であったことが末尾に付されています。内容をみると、念仏勤行の日は男女同席してはいけないこと、魚・鳥を食べてはいけないこと、酒に酔っていけないことなど、こと細かに門徒(信者)を戒め、戒を破った場合は厳しく処罰することが明記されています。さらに、注目されるのは、末尾に、正嘉2(1258)年の諸仏等同論議に関することが記されていることです。この論議に関する唯一の資料として、真宗史を研究する上で欠かせない貴重な遺品です。

親鸞聖人筆「浄興寺」 一幅

親鸞聖人筆「浄興寺」 一幅

縦28.0cm 横44.0cm 鎌倉時代(1224)
紙本墨書。親鸞聖人が浄興寺を創建したときに掲げた寺号の額といわれています。元仁元年(1224)聖人は、浄土真宗開宗の根本経典ともいうべき『教行信証』をまとめました。完成を喜んだ聖人は、当時住んでいた草庵に「歓喜踊躍山浄土真宗興行寺」と寺号を与えました。その略称が「浄興寺」です。

宣如上人筆「浄興寺」 一幅

宣如上人筆「浄興寺」 一幅

縦32.0cm 横81.5cm 江戸時代(1648)
紙本墨書。本願寺十三世宣如上人が揮毫。
(表記)
正保五戊子歳
初春下旬写之
釈宣如(花押)

従如上人筆「浄興寺」 一幅

従如上人筆「浄興寺」 一幅

縦32.0cm 横81.5cm 江戸時代(1746)
紙本墨書。本願寺十八世従如上人が揮毫。現在、本堂正面に掲げられている寺号額の原本です。
(表記)
延享三丙寅歳
晩春中旬写之
釈従如(印)

親鸞聖人筆<九字名号> 一幅

親鸞聖人筆<九字名号> 一幅

縦114.0cm 横36.8cm 室町時代(15世紀)
絹本著色。聖人真筆。寺伝では、浄興寺創立以来、本尊の脇掛のひとつとして尊崇されてきました。画幅の中央、彩色の蓮華座に「南無不可思議光如来」の九字名号を金泥で置き、背景に光明を放ちます。聖人は、仏教の他宗派と異なって木造や絵像を礼拝対象とせず、本画像のような名号の本尊を尊びました。

御手形六字名号 一幅

御手形六字名号 一幅

縦72.2cm 横24.2cm 鎌倉時代(13世紀)
紙本墨書。本紙中央に「南無阿弥陀仏」の六字名号を置き、その下に、両手形を配します。名号の右には「南无仏ト手ヲ合タル印ニソ」、左に「師トモロ共ニ弥陀ノ浄土ヘ」と一首の和歌を分かちます。名号は法然上人が書かれ、印形・和歌ともに親鸞聖人のものと伝えられています。聖人が師法然上人から念仏の教えを授かったときに一緒に拝領した名号といわれています。

蓮如上人筆<六字名号> 一幅

蓮如上人筆<六字名号> 一幅

縦79.0cm 横25.0cm 室町時代(15世紀)
紙本墨書。蓮如上人の象徴とされる草書体の名号です。上人は、いつでもどこでも門徒に請われるまま、あるいは座す場所がなければ立ったまま書き与えたと伝えられています。

山科歳末詠歌(蓮如上人紙牌) 一幅

山科歳末詠歌(蓮如上人紙牌) 一幅

縦41.5cm 横20.0cm 室町時代(1493)
紙本墨書。寺伝では、明応2年(1493)蓮如上人から浄興寺九世功観上人に下付されたものといわれています。
(釈文)
法印権大僧都兼寿 年暮ぬれははや
満八十になるべき事を
仏にも祖師にもよはひ おなしくて
八十地にみてる あくる初春
我なくは 誰も心を ひとつにて
南無阿弥陀仏と たのめみな人

西本願寺からの分骨礼状 一幅

西本願寺からの分骨礼状 一幅

縦19.2cm 横35.6cm 桃山時代(1592)
紙本墨書。
(釈文)
態使者被差上候仍
開山聖人之御骨年
来大望候処被差
上候段別而満足不過之候
随而遠路之処為音信
青銅五十疋懇志之至為
悦候就中扇子五十本
任到来進之候此方弥
堅固候之間可心易候猶
性応寺可申候穴賢〃〃
九月廿五日 顕尊(花押)
浄興寺

東本願寺からの分骨礼状 一幅

東本願寺からの分骨礼状 一幅

縦28.3cm 横44.3cm 江戸時代(1660)
紙本墨書。
(釈文)
浄興寺御房  霊瑞院
智光院
元祖聖人並七上人之御遺骨
今度随成等院殿御願望
被分授候処尤大切之至信仰
不可過之候是等之旨趣宜演謝辞之由
任其命候者也不宣
智光院
従因(花押)
五月廿五日
霊瑞院
従高(花押)
浄興寺御房

興正寺からの分骨礼状 一幅

興正寺からの分骨礼状 一幅

縦28.0cm 横45.0cm 江戸時代(17世紀)
紙本墨書。
(釈文)
先度者家之霊
宝共持参心静
令拝見殊内之
大望存候
祖師聖人之御骨
給満足不過之候
猶期来観之時候
穴賢〃〃
卯月十一日 准秀(花押)
浄興寺とのへ

絹本著色法然上人絵伝 六幅

絹本著色法然上人絵伝 六幅

新潟県文化財 縦156.3cm 横82.3cm(各幅共) 鎌倉時代(14世紀)

法然上人自画真影 一幅

法然上人自画真影 一幅

縦85.1cm 横37.0cm 室町時代(1483)
絹本著色。礼盤に座し、数珠をまさぐる法然上人の画像で、寺伝では、上人自筆といわれています。親鸞聖人は、元久2(1205)年に師、法然上人の真影を描くことを許されています。画幅上部に帰される賛は、本願寺三世覚如上人の筆になるものです。文明15(1483)年浄興寺九世巧観上人の代に、本願寺八世蓮如上人からもたらされたことが裏書に記されています。
(裏書)
釈蓮如(花押)
文明十五歳卯癸 九月廿八日
信州水内郡大田庄
黒谷法然聖人真影
長沼浄興寺常住物也
願主 釈巧観

絹本著色 親鸞聖人伝絵 四幅

絹本著色 親鸞聖人伝絵 四幅

上越市文化財 縦141.0cm 横81.0cm(各幅共) 室町時代(1494)
親鸞聖人の出家から本廟創立までを四幅の絵にまとめたものです。親鸞聖人の伝記絵は、永仁3(1295)年に、覚如上人(本願寺三世)が撰述し、「善信聖人絵」と題して、絵を信州康楽寺の浄賀上人に描かせたのが原本といわれており、親鸞伝記は、おおむねこの絵伝にもとづいています。はじめは絵巻物としてまとめられましたが、絵解き(物画などを用いて視覚的に説教する事)しやすいように、のちに詞書と絵が分けられ、詞書を「御伝鈔」、絵を「御絵伝」と称するようになりました。浄興寺本は、裏書から明応3(1494)年に本願寺九世実如上人からいただいたことがわかります。

絹本著色 親鸞聖人等身真影 一幅

絹本著色 親鸞聖人等身真影 一幅

上越市文化財 縦103.0cm 横69.0cm 桃山時代(1615)
等身大に描かれた親鸞聖人の画像です。衲衣の上に袈裟を身につけ、帽子と呼ばれる白いスカーフのようなものを首に巻いて、胸前で数珠をまさぐる姿勢をとります。裏書に宣如上人(大谷本願寺十三世)の名前が見えます。寺伝によると、この画像は、浄興寺十五世善芸上人(1559~1647)が宣如上人から下付されたもので、狩野山楽(1559~1635)に制作させたものと伝えます。山楽は、師の狩野永徳と並ぶ桃山時代を代表する絵師で、永徳ゆずりの豪壮な筆法に、装飾性を加味した作風は、高く評価されています。
(裏書)
釈宣如(花押)
慶長廿卯乙稔八月八日
本願寺親鸞聖人等身御影 信州水内郡大田庄
長沼浄興寺常住物也
願主 釈善芸

三方正面阿弥陀如来立像 一幅

三方正面阿弥陀如来立像 一幅

縦90.0cm 横32.5cm 室町時代(15世紀)
絹本著色。阿弥陀如来を絵で表したもので真宗では「方便法身尊像」といいます。寺伝では、法然上人から聖人、さらに浄興寺二世善性上人に伝えられたものといわれています。左右から拝しても阿弥陀如来が正面向きで見えることから、この名称がつけられました。この画像は、画絹の裏側に金箔を押して本像をかたどる裏箔という技法が用いられ、表面は、彩色や金泥で衣文などが装飾されています。

絹本著色 小康和尚像 一幅

絹本著色 少康和尚像 一幅

新潟県文化財 縦87.2cm 横36.3cm 南北朝~室町時代(14世紀)
浄土五祖の一人、少康和尚を描いた画像。和尚は中国の唐時代中期に活躍した高僧で、浄土教を大成させた善導大師の教えを世の中に広めるために努めました。この画像は、和尚が大きな声で念仏を唱えるたびに口から阿弥陀如来が飛び出して連珠のように連なった、という奇瑞を表し、上部に和尚の法語が添えられています。画風は中国の南宋の影響を受けており、上部に書かれた法語の書風などから、南北朝時代から室町時代初期に日本で書写されたものと推定されます。少康和尚の独立した画像はきわめて珍しく、絵画史の価値とともに、たいへん貴重な遺品です。

絹本著色 二尊連座像 一幅

絹本著色 二尊連座像 一幅

上越市文化財 縦86.0cm 横35.0cm 室町時代(1483)
右上に親鸞聖人、左下に善性上人を対座する形で配置されています。文明15(1483)年に蓮如上人から浄興寺九世巧観上人がいただいた画幅。この構図は、善性上人こそが親鸞聖人の教えを正しく継承している事を絵画に表したもので、いいかえれば浄興寺が浄土真宗の正統である事を表現した画像と推測されます。本願寺を復興し、真宗隆盛の基礎を築いた蓮如上人は、浄興寺が宗祖聖人が開いた寺院であること、聖人の御頂骨を護持する寺院である由緒から、この画像を下付したものと思われます。本願寺と浄興寺の関係、ひいては、真宗における浄興寺の法脈を知る上で貴重な資料です。
(裏書)
釈蓮如(花押)
大谷本願寺□□聖人 文明十五卯癸九月廿八日
善性上人 信州水内郡大田庄
長沼浄興寺常住物也
願主 釈巧観

三朝七高僧真影 一幅

三朝七高僧真影 一幅

縦102.0cm 横47.5cm 室町時代(1479)
絹本著色。画幅の左(向かって右)上から「竜樹菩薩」「曇鸞大師」「善導大師」「源空上人(法然)」、右上から「天親菩薩(世親)」「道綽禅師」「源信和尚(恵心僧都)」を描いています。インド(竜樹・天親)・中国(曇鸞・善導・道綽)・日本(源信・法然)で浄土教の大成と発展に寄与した七人の高僧です。ちなみに、親鸞聖人の名は二人の先師「曇鸞」と「天親」からそれぞれ一字とったものです。裏書には、蓮如上人が65歳の時に自ら筆をとったことが記されています。
(裏書)
六十五歳
釈蓮如(花押)
文明十一歳亥乙三月十八日 図画之就
三朝浄土大師真影

木造阿弥陀如来立像 一躯

木造阿弥陀如来立像 一躯

室町時代(15世紀)
当寺の本尊として本堂内陣に安置されています。寄木造。玉眼を嵌入。来迎を示す阿弥陀如来像。長沼浄興寺(長野市)にもたらされ、寺地の移転とともに現在地に移ったものと考えられます。初期の真宗では、名号を本尊として尊びましたが、本願寺第三世覚如上人の頃から絵像、木造も本尊として奉られるようになりました。

木造阿弥陀如来立像 一躯

木造阿弥陀如来立像 一躯

像高43.4cm
寄木造。来迎の姿を示す阿弥陀如来像で、金泥塗り。玉眼が嵌入されています。熊谷蓮生房安置仏と伝えられています。熊谷蓮生、本名は、直実。平家追討に功をたてた武将で、一の谷の戦いで平敦盛を討った逸話は有名です。のちに出家して法然上人の門下となりました。

木造聖徳太子立像 一躯

木造聖徳太子立像 一躯

桃山時代(17世紀)
寄木造。檜材。彩色。聖人自作の像と伝えられ、稲田草庵の本尊として奉られて以来、中世まで浄興寺の本尊とされていました。現在見られる彩色は、本願寺八世蓮如上人が加彩したと伝えられています。この像は、太子(574~622)が16歳の時、父用明天皇の病気に際し、日夜看病し、香炉を捧げて祈請した伝説をもとに作られました。このことから太子十六歳像あるいは孝養像とも呼ばれています。太子の信仰は、生前にすでに起こり、太子の伝記『聖徳太子伝暦』が記された平安時代以降ますます盛んとなり、多くの太子像や絵伝が制作されました。特に、親鸞聖人は、六角堂へ参籠した際、聖徳太子の夢告を受けて法然上人に帰依した、と伝えられていることから、真宗の寺院では、とりわけ篤く信仰されています。

親鸞聖人笈 一口

親鸞聖人笈 一口

幅52.0cm 奥37.0cm 高62.0cm
桐材。聖人が背負ったと伝えられている笈。正面が観音開きで中は二段に仕切られています。背面に穴を4個うがって、背負う時に紐を通したと思われます。装飾もきわめて簡素で、聖人が関東の地で布教を行なったよすがを今に伝えています。善性上人以後の上人は、浄興寺の寺地が移動するたび、この笈に聖人の御頂骨を納めて大切に運んだといわれています。

三祖伝来の念珠 一連

三祖伝来の念珠 一連

叡空上人から法然上人へ、さらに親鸞聖人をへて善性上人に伝えられた遺品といわれています。一説には、法然上人を荼毘に臥したとき、焼け残ったことから「荼毘三昧へ携扱の数珠」「焼け房の数珠」として尊崇されています。

六角宝塔 一基

六角宝塔 一基

高18.0cm
金銅製。聖人の御頂骨を納める舎利塔です。六角の火袋の各面には、蓮華の上に花頭の窓をあけ、水晶に入った御頂骨を納めています。本堂北側の本廟に奉られる寺宝中の寺宝です。一般には公開しておりません。

四角宝塔 一基

四角宝塔 一基

高27.5cm
真鍮製。本願寺三世覚如上人以下、歴代門主の分骨を納めた宝塔です。火袋の部分が箪笥の引出のようにあつらわれており、それぞれの小箱に御骨を納め、各上人の名を記しています。本寺が親鸞聖人の開かれたこと、聖人の御頂骨を護持したことから本願寺門主が分骨されたものです。

宝珠文刺衲袈裟並に横被 一領

宝珠文刺衲袈裟並に横被 一領

新潟県文化財 鎌倉時代(13世紀)
浄興寺二世の善性上人が所持していたと伝えられる袈裟。日本に伝わる鎌倉時代以前の数少ない古袈裟の一つとして、たいへん貴重な遺品です。布を長方形に裁断し、田の形(田相)に縫いあわせ、条の部分は、木蘭色の平絹の地に、紫・藍・朱で大小の宝珠や火焔の分様をちりばめています。葉の部分は、経糸を木蘭色の絹糸とし、緯糸を地織りの木綿の太糸として、紫・褐色の紙のきり子で、花形などの文様を織り出しています。この袈裟は、服飾史のみならず、染色資料としてもたいへん価値の高いものとして注目されます。

五条袈裟 一領

五条袈裟 一領

桃山時代(16世紀)
浄興寺を越後(新潟県)の地に招いた上杉謙信公から拝領した袈裟。上杉家の家紋「竹に双雀」があしらわれています。

仏絵天竺繍の七条袈裟 一領

仏絵天竺繍の七条袈裟 一領

桃山時代(17世紀)
阿弥陀如来を刺繍した反物を、七条袈裟にあつらえたもの。反物は、徳川家康が東本願寺教如上人に寄進され、さらに上人から浄興寺十五世善芸上人に下賜されたものと伝えられています。

屈輪香合 一口

屈輪香合 一口

上越市文化財 径11.0cm 高3.4cm 中国宋時代(13世紀)
寺伝では、後白河法皇から法然上人を経て親鸞聖人へ、さらに弟子の善性上人(浄興寺二世)へ譲られ、代々受け継がれてきました。香合は、香などを入れる容器で、これは、堆朱と呼ばれる技法を用いて作られています。堆朱とは、朱漆を幾層にも塗り重ね、その漆の層に文様を彫り出す技法です。また、この香合に施された文様は、蕨形の連続した渦巻で、屈輪と呼ばれるものです。善性上人は、聖人の没後、御頂骨と遺品を譲られますが、この香合も、その遺品の中の一つといわれています。

水滴 一口

水滴 一口

高7.8cm 明治時代(19世紀)
金銅製。明治天皇から下賜された水滴。浄興寺第二十五世英昌上人と明治天皇が姻戚関係にあたることから拝領したものです。浄興寺二世善性上人が後鳥羽天皇の皇子であって以来、本寺は皇族とも浅からぬ関係を築いてきました。

梵鐘 一口

梵鐘 一口

新潟県文化財 高25.6cm 口径74.0cm 室町時代(15世紀)
上杉謙信公が寄進した梵鐘。銘文が刻まれていませんが、形などから室町時代の制作と考えられます。鋳造技術が優れており、格式ある中央(京)の鋳物師の作と考えられています。寺伝では、長沼浄興寺は、川中島合戦の戦禍を受け、上杉謙信公によって越後春日山城下へ招かれたといわれています。この梵鐘は、公により厚い庇護を受けたことを物語っています。

豆殻太鼓 一口

豆殻太鼓 一口

本堂と宝物殿を結ぶ回廊に太鼓の胴のみ吊るされています。豆の木製で、もともと春日山城にあって出陣のたびに打ち鳴らしました。しかし、あまりにも音が大きいので海の魚が逃げてしまい、猟師の生活を心配した謙信公が皮を破り胴のみ浄興寺に寄進したと伝えられています。

関長門守の境内安堵状 一通

関長門守の境内安堵状 一通

縦31.2cm 横48.0cm 桃山時代(1598)
(釈文)
寺内門前共
不可有相違
旨、任理令
同心候、弥繁栄
之儀肝要ニ候
猶左京遺可申候也
関長門守
慶長三戍
卯月朔日  (花押)
浄興寺

紙本墨書。浄興寺の境内を安堵する書状。関長門守は豊臣秀吉の検地長。

松平忠輝の禁制 一通

松平忠輝の禁制 一通

縦33.0cm 横50.5cm 桃山時代(1610)
(釈文)
禁 制
一 甲乙人狼籍之事
一 寺中門前竹木伐採事
一 寺中牛馬放之事
右条々堅令停止訖若
於遠犯輩有之者速可
処罪科者也仍如件
慶長十五年七月十三日 刑部少輔(花押)
隼人正(花押)
大隅守(花押)

紙本墨書。福島城(上越市港町一)主、松平忠輝が発給した禁制。忠輝は徳川家康の六男、慶長十九年に高田城を築城。

松平筑後守の寺屋敷取定状 一通

松平筑後守の寺屋敷取定状 一通

縦35.6cm 横24.4cm 江戸時代(1616)
(釈文)
常黄寺御堂屋敷此前より
御取被成候、此度も御前にて尚定候間
禧而寺□立候、誰成共御望有間敷事
以上

戌ノ
卯月八日 松平筑後守(印)

紙本墨書。松平筑後守(信宗)は、松平忠輝の重臣。糸魚川城主。