
桐材。聖人が背負ったと伝えられている笈。
正面が観音開きで中は二段に仕切られています。
背面に穴を4個うがって、背負う時に紐を通したと思われます。装飾もきわめて簡素で、聖人が関東の地で布教を行なったよすがを今に伝えています。
善性上人以後の上人は、浄興寺の寺地が移動するたび、この笈に聖人の御頂骨を納めて大切に運んだといわれています。
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叡空上人から法然上人へ、さらに親鸞聖人をへて善性上人に伝えられた遺品といわれています。
一説には、法然上人を茶毘に臥したとき、焼け残ったことから「茶毘三昧へ携扱の数珠」「焼け房の数珠」として尊崇されています。
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金銅製。聖人の御頂骨を納める舎利塔です。
六角の火袋の各面には、蓮華の上に花頭の窓をあけ、水晶に入った御頂骨を納めています。
本堂北側の本廟に奉られる寺宝中の寺宝です。一般には公開しておりません。
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真鍮製。本願寺三世覚如上人以下、歴代門主の分骨を納めた宝塔です。
火袋の部分が箪笥の引出のようにあつらわれており、それぞれの小箱に御骨を納め、各上人の名を記しています。
聖人の御頂骨を護持したことから本願寺門主が分骨されたものです。
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浄興寺二世の善性上人が所持していたと伝えられる袈裟。日本に伝わる鎌倉時代以前の数少ない古袈裟の一つとして、たいへん貴重な遺品です。
布を長方形に裁断し、田の形(田相)に縫いあわせ、条の部分は、木蘭色の平絹の地に、紫・藍・朱で大小の宝珠や火焔の分様をちりばめています。葉の部分は、経糸を木蘭色の絹糸とし、緯糸を地織りの木綿の太糸として、紫・褐色の紙のきり子で、花形などの文様を織り出しています。
この袈裟は、服飾史のみならず、染色資料としてもたいへん価値の高いものとして注目されます。
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浄興寺を越後(新潟県)の地に招いた上杉謙信公から拝領した袈裟。
上杉家の家紋「竹に双雀」があしらわれています。
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阿弥陀如来を刺繍した反物を、七条袈裟にあつらえたもの。
反物は、徳川家康が東本願寺教如聖人に寄進され、さらに上人から浄興寺十五世善芸上人に下賜されたものと伝えられています。
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寺伝では、後白河法皇から法然上人を経て親鸞聖人へ、さらに弟子の善性上人(浄興寺二世)へ譲られ、代々受け継がれてきました。
香合は、香などを入れる容器で、これは、堆朱と呼ばれる技法を用いて作られています。堆朱とは、朱塗りを幾層にも塗り重ね、その漆の層に文様を彫り出す技法です。また、この香合に施された文様は、蕨形の連続した渦巻で、屈輪と呼ばれるものです。
善性上人は、聖人の没後、御頂骨と遺品を譲られますが、この香合も、その遺品の中の一つといわれています。
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金銅製。明治天皇から下賜された水滴。
浄興寺第二十五世英昌上人と明治天皇が姻戚関係にあたることから拝領したものです。
浄興寺二世善性上人が後鳥羽天皇の皇子であって以来、本寺は皇族とも浅からぬ関係を築いてきました。
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上杉謙信公が寄進した梵鐘。銘文が刻まれていませんが、形などから室町時代の制作と考えられます。
鋳造技術が優れており、格式ある中央(京)の鋳物師の作と考えられています。
寺伝では、長沼浄興寺は、川中島合戦の戦禍を受け、上杉謙信公によって越後春日山城下へ招かれたといわれています。
この梵鐘は、公により厚い庇護を受けたことを物語っています。
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本堂と宝物殿を結ぶ回廊に太鼓の胴のみ吊るされています。
豆の木製で、もともと春日山城にあって出陣のたびに打ち鳴らしました。
しかし、あまりにも音が大きいので海の魚が逃げてしまい、猟師の生活を心配した謙信公が皮を破り胴のみ浄興寺に寄進したと伝えられています。
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(釈文)
寺内門前共
不可有相違
旨、任理令
同心候、弥繁栄
之儀肝要ニ候
猶左京遺可申候也
関長門守
慶長三戍
卯月朔日 (花押)
浄興寺
紙本墨書。浄興寺の境内を安堵する書状。
関長門守は豊臣秀吉の検地長。
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(釈文)
禁 制
一 甲乙人狼籍之事
一 寺中門前竹木伐採事
一 寺中牛馬放之事
右条々堅令停止 若
於遠犯輩有之者速可
処罪科者也仍如件
慶長十五年七月十三日 刑部少舗(花押)
隼人正(花押)
大隈守(花押)
紙本墨書。福島城(上越市港町一)主、松平忠輝が発給した禁制。
忠輝は徳川家康の六男、慶長十九年に高田城を築城。
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(釈文)
常黄寺御堂屋敷此前より
御取被成候、此度も御前にて尚定候間
禧而寺□立候、誰成共御望有間敷事
以上
戌ノ
卯月八日 松平筑後守(印)
紙本墨書。松平筑後守(信宗)は、松平忠輝の重臣。
糸魚川城主。
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