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浄土真宗史上においても貴重な史料として認められる寺宝を所蔵し、
その多くが文化財指定となっています。

  

 紙本墨書。
 (釈文)
   浄興寺御房  霊瑞院
          智光院
  元祖聖人並七上人之御遺骨
  今度随成等院殿御願望
  被分授候処尤大切之至信仰
  不可過之候是等之旨趣宜演謝辞之由
  任其命候者也不宣
          智光院
          従因(花押)
   五月廿五日
          霊瑞院
          従高(花押)
    浄興寺御房

 
 

 紙本墨書。
 (釈文)
  先度者家之霊
  宝共持参心静
  令拝見殊内之
  大望存候
  祖師聖人之御骨
  給満足不過之候
  猶期来観之時候
  穴賢〃〃

  卯月十一日 准秀(花押)
   浄興寺とのへ

 
 


 
※第一幅より
 

 絹本著色。礼盤に座し、数珠をまさぐる法然上人の画像で、寺伝では、上人自筆といわれています。
 親鸞聖人は、元久2(1205)年に師、法然上人の真影を描くことを許されています。
 画幅上部に帰される賛は、本願寺三世覚如上人の筆になるものです。文明15(1483)年浄興寺九世巧観上人の代に、本願寺八世蓮如上人からもたらされたことが裏書に記されています。
  (裏書)
             釈蓮如(花押)
        文明十五歳卯癸 九月廿八日
        信州水内郡大田庄
   黒谷法然聖人真影
        長沼浄興寺常住物也
              願主 釈巧観

 
 

 親鸞聖人の出家から本廟創立までを四幅の絵にまとめたものです。
 親鸞聖人の伝記絵は、永仁3(1295)年に、覚如聖人(本願寺三世)が撰述し、「善心聖人絵」と題して、絵を信州康楽寺の浄賀上人に描かせたのが原本といわれており、親鸞伝記は、おおむねこの絵伝にもとづいています。
 はじめは絵巻物としてまとめられましたが、絵解き(物画などを用いて視覚的に説経する事)しやすいように、のちに詞書と絵が分けられ、詞書を「御伝鈔」、絵を「御絵伝」と称するようになりました。
 浄興寺本は、裏書から明応3(1494)年に本願寺九世実如聖人からいただいたことがわかります。

 
※第三幅より
 

 等身大に描かれた親鸞聖人の画像です。衲衣の上に袈裟を身につけ、帽子と呼ばれる白いスカーフのようなものを首に巻いて、胸前で数珠をまさぐる姿勢をとります。
 裏書に宣如上人(大谷本願寺十三世)の名前が見えます。
 寺伝によると、この画像は、浄興寺十五世善芸上人(1559〜1647)が宣如上人から下付されたもので、狩野山楽(1559〜1635)に制作させたものと伝えます。
 山楽は、師の狩野永徳と並ぶ桃山時代を代表する絵師で、永徳ゆずりの豪壮な筆法に、装飾性を加味した作風は、高く評価されています。

 (裏書)
            釈宣如(花押)
            慶長廿乙稔八月八日
  本願寺親鸞聖人等身御影 信州水内郡大田庄
              長沼浄興寺常住物也
                 願主 釈善芸

 
 

 絹本著色。阿弥陀如来を絵で表したもので真宗では「方便法身尊像」といいます。
 寺伝では、法然上人から聖人、さらに浄興寺二世善性上人に伝えられたものといわれています。
 左右から拝しても阿弥陀如来が正面向き見えることから、この名称がつけられました。
 この画像は、画絹の裏側に金箔を押して本像をかたどる裏箔という技法が用いられ、表面は、彩色や金泥で衣文などが装飾されています。

 
 

 浄土五祖の一人、小康和尚を描いた画像。
 和尚は中国の唐時代中期に活躍した高僧で、浄土教を大成させた善導大師の教えを世の中に広めるために努めました。
 この画像は、和尚が大きな声で念仏を唱えるたびに口から阿弥陀如来が飛び出して連珠のように連なった、という奇瑞を表し、上部に和尚の法語が添えられています。
 画風は中国の南宋の影響を受けており、上部に書かれた法語の書風などから、南北朝時代から室町時代初期に日本で書写されたものと推定されます。  小康和尚の独立した画像はきわめて珍しく、絵画史の価値とともに、たいへん貴重な遺品です。

 
 

 右上に親鸞聖人、左下に善性上人を対座する形で配置されています。
 文明15(1483)年に蓮如聖人から浄興寺九世巧観上人がいただいた画幅。
 この構図は、善性上人こそが親鸞聖人の教えを正しく継承している事を絵画に表したもので、いいかえれば浄興寺が浄土真宗の正統である事を表現した画像と推測されます。
 本願寺を復興し、真宗隆盛の基礎を築いた蓮如上人は、浄興寺が宗祖聖人が開いた寺院であること、聖人の御頂骨を護持する寺院である由緒から、この画像を下付したものと思われます。
 本願寺と浄興寺の関係、ひいては、真宗における浄興寺の法脈を知る上で貴重な資料です。

 (裏書)
            釈蓮如(花押)
  大谷本願寺□□聖人 文明十五卯癸九月廿八日
       善性上人 信州水内郡大田庄
            長沼浄興寺常住物也
                 願主 釈巧観

 
 

 絹本著色。画幅の左(向かって右)上から「竜樹菩薩」「曇鸞大師」「源空上人(法然)」、右上から「天親菩薩(世親)」「道綽禅師」「源信和尚(恵心僧都)」を描いています。
 インド(竜樹・天親)・中国(曇鸞・善導・道綽)・日本(源信・法然)で浄土教の大成と発展に寄与した七人の高僧です。
 ちなみに、親鸞聖人の名は二人の先師「曇鸞」と「天親」からそれぞれ一字とったものです。裏書には、蓮如上人が65歳の時に自ら筆をとったことが記されています。

  (裏書)
                  六十五歳
                釈蓮如(花押)
     文明十一歳亥乙三月十八日 図画之就
   三朝浄土大師真影

 
 

 当寺の本尊として本堂内陣に安置されています。
 寄木造。玉眼を嵌人。来迎を示す阿弥陀如来像。
 長沼浄興寺(長野市)にもたらされ、寺地の移転とともに現在地に移ったものと考えられます。
 初期の真宗では、名号を本尊として尊びましたが、本願寺第三世覚如上人の頃から絵像、木造も本尊として奉られるようになりました。

 
 

 寄木造。来迎の姿を示す阿弥陀如来像で、金泥塗り。玉眼が嵌人されています。
 熊谷蓮生房安置仏と伝えられています。熊谷蓮生、本名は、直実。
 平家追討に功をたてた武将で、一の谷の戦いで平敦盛を討った逸話は有名です。
 のち出家して法然上人の門下となりました。

 
 

 寄木造。檜材。彩色。聖人自作の像と伝えられ、稲田草庵の本尊として奉られて以来、中世まで浄興寺の本尊とされていました。
 現在見られる彩色は、本願寺八世蓮如上人が加彩したと伝えられています。
 この像は、太子(574〜622)が16歳の時、父用明天皇の病気に際し、日夜看病し、香炉を捧げて祈請した伝説をもとに作られました。

 
  

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